理論社

第18回

2021.02.01更新

自分の道を見つけたい! 最終回 G1さん篇6

G1さんから不登校時代のお話をうかがっていると、お父さんについてこんな話が出てきたのが印象的でした。
「不登校や引きこもりの状態になったら、親は、ずっとそんな状態だと誰々みたいな落ちこぼれになるぞ、とか、〜みたいにロクな人間にならないぞ、なんて言ってしまいそうじゃないですか。でも、父親はそういう他の誰かと比較して、あんなふうになったらいけないとか、そういうことを言ったことがまったくなかったんですよ」と。
そこで、G1さんのお父さんに、ご家庭の教育方針のようなものがあったのか、うかがってみました。

お父さん お父さん
うちは妻が、あんまり勉強ばっかりしても、いい人間に育つわけじゃない、という考えだったので、しつけ程度のことは言うけれど、勉強についてはうるさく言ってなかったんでしょうね。
それと、親が子どもに生き方を押しつけるというのは、それはただの親の自己満足とか自己顕示欲になりかねないところがあんじゃないか、と思います。

勉強や仕事ができて、立派な方ももちろんたくさんいると思いますが、人に対して偉そうに上から目線でふるまって、うすっぺらいことしか言えない人間になったとしたら、そういうのは嫌だなあと、それは若い頃から、私自身思っていました。
勉強だけじゃなく趣味も持ったり、いろんなことを体験してると視野が広くなるから、人に対して偉そうにするようなことはしなくなるんじゃないかなと思います。

それともうひとつは、私は親戚やらにエリートコースを生きてるような人がひとりもいなくて、偉そうにしてる人というのをまわりで見たことなかったんですよ。ようするに庶民ですね。そういうことも関係してるかもしれないですね。

お父さんのお話を聞いて、私はなんとなく、広島に原爆の取材に行ったときにお話をうかがった、在日朝鮮人被爆者の女性のことを思い出しました。
その方は80歳をすぎたおばあちゃんで、原爆に遭い、しかも在日外国人として差別も受けるという壮絶な人生を送ってきた方ですが、とても笑顔のかわいい、優しいおばあちゃんでした。その方がこんなふうに言っていたのです。

「在日の人でも日本人でも、偉そうにしてる人は、私、ちょっといやぁねえ。日本人でも韓国人でも朝鮮人でも、優しい気持ちでおつきあいしてたら、みんな優しくしてくれるのよ〜」

たくさんの辛さをのりこえて来た中で得た人間観なんだなあと、そのとき私は、なんだかとても大事なことを聞いたような気がしました。
そのおばあさんのことを思い出しながら、私は、G1さんのお母さんとお父さんは、息子に「いい人間」になってくれたらそれでいいと願ったのかなあ、なんて想像しました。

じゃあ、「いい人間」って、いったいどんな人間なんだろう。
人より成功した人かな? 立派なことを成し遂げた人かな? 優しい人かな? おっちょこちょいだけど、人を笑わせることができる人かな? 幸せそうな人かな? 悲しそうな人は「いい人間」じゃないのかな? 悪いことをした人は「いい人間」にはなれないのかな?
「いい人間」の姿って、きっとひとつじゃなくて、ものすごくバラエティに富んでるんだろうなあ、なんて考えました。

ちなみに、中学生や高校生のころの私は、どういう人間になりたいかなんてことははっきり分からなかったけれど、とにかく「自由に生きたい」ということは強く思っていたような気がします。
親や他人の敷いたレールの上を歩いて、自分のやりたいことをしないという人生だけは嫌だ、というようなことはしきりに考えていました。じゃあ具体的にどうすればいいのかってことは、ぜんぜん分からなかったんですけどね。

思春期のころは「自由に生きたい」とばっかり考えていた私。G1さんのお父さんのように「いい人間」の姿について考えられるようになったのって、何歳くらいのことだろう。確かに、いつくらいからか、「自分もいい人間になりたいなあ」なんて思うようになってきた気がします。
うーん、「いい人間」の姿って、なかなか大きなテーマというか、考えだすと深いテーマのように思います。

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G1さんは自己追求型のお父さんの気質を受け継いでるんじゃないか、そして父親もそういう性質だからこそ、うるさく口出ししなかったんじゃないか、と話していましたが、G1さんが競馬にのめり込みだしたとき、お父さんとしては自分と似てるから理解をもって眺められた部分もあったのでしょうか?

お父さん お父さん
実は私はギターが趣味なんですよ。それで、乗馬もギターも同じだと思うんですけど、そういう技術を極めていくものっていうのは、勉強したから極められるというものではないんですよね。
自分のやり方のどこが良いのか悪いのか、重箱の隅をつつくように研究していくとか、そうやって自分でチャレンジして失敗して、体験から自分で気づくしかないところがあるんです。
説明して教えたって絶対に伝わらないものがある。本人が自分で試行錯誤や失敗を重ねて気づくという能力、そういうセンスが必要なんです。
だから「自分でやって、自分で気づくしかないんだ」ということは、私自身がギターという趣味があったから感じてたのかなと思いますね。

それと、息子を見守るという意味では、「こんな状態だったらロクな大人にならない」とか、そういう心配をするとドツボにはまりますからね、そうならないように、肚を決める必要はあったと思います。
成長パターンとして想像したのは、馬の育成者や競馬評論家なんて道があるのかなあと空想したりして、どの道を進むかでどういうサポートができるかを想定して、まあ、のたれ死にすることはないだろうと考えました。人間、若い内は自分で人生を切り開いていかないといけないですから、その過程を見守っていこうと。

お父さんの「のたれ死にすることはない」という言葉に共感してしまいました。
というのも、私自身、自分が絵描きや作家として企業にも属さずひとりの力で生きていかないといけないというチャレンジに踏み出したとき、呪文のように「のたれ死にすることはない」と自分に言い聞かせてきましたから(笑)
途中でこれが、「のたれ死にしたっていいじゃないか」と思うくらいまで差し迫った状況になったりもしましたが、それでも人間、しぶとく生きてるとなんだかんだで道を切り開いていけるものだということも学習しました。

極端な話に聞こえるかもしれませんが、「人間、いちばん最悪でも死ぬだけだ」と思い定めたとき、「死ぬくらいなら、やってみようと思うことをなんでもやってみよう」という気持ちも湧いてくるものだなあと感じました。

そういうことも含めて、お父さんの言うように「自分で気づくしかないことに気づく」ということが、「生きること」の意味でもあるように思います。
誰の人生にも、その人のオリジナルな人生の道のりの中でないと気づけないことというのがあるのだと思います。
人は、その「自分の人生でしか知ることのできないなにか」を知るために生きているんじゃないかなあ。

そしてこの、お父さんの「自分で気づくしかない」という言葉、奇しくもG1さんも、まったく同じことを語っていました。

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