理論社

第14回

2020.11.13更新

自分の道を見つけたい! 第14回 G1さん篇2

すべての人が文字の学習をしなくたって、いろんな生き方の可能性はたくさん探れるし、広がってるんじゃないかということを、こういった方々は教えてくれるように感じます。
発達障害の子とか、不登校になるような感覚鋭敏なタイプの子って、私たちの「常識」を打ち破る可能性の芽を携えているのかもしれないなと思うことが度々あります。

もちろん、症状や状態は人それぞれとても違うので、一律の考え方や方法論だけじゃなく、さまざまな可能性を探る必要があるのは大前提です。
その一方で、一般的に「普通」と言われていることが「できない」からこそ、一般的な場所からは見えない、思わぬ道を発見することができる可能性を秘めているといいますか、「読み書き」ができないからこそ、新しい技術や表現の可能性を発見していく人になっていけることも、あるんじゃないかなと思うのです。
だから私は、発達障害や不登校に興味や関心があるのかもしれません。
「できないこと」を矯正するだけではなく「できること、得意な性質」をどんどん伸ばせる教育の場がたくさんあったら、どんな可能性が開けるのだろうと、よく想像します。

正直、自分がもしも今、中学生だったら、ぜひとも不登校をやってみたいなあと思います。「学校じゃない可能性の世界」を思いっきり探究して、「得意なこと」を伸ばしていたら、もっと常識に縛られず、自由に羽ばたける自分になれてたんじゃないかな、なんて思ったりもするのです。

ころで、私の中学生のころを思うと、「学校に行かない」となると、自分はG1さんとちがって「高校に行けなくなるかも」などの不安を感じただろうなと思います。
では、親からそういう刷り込みを受けたのかというと、そうではなく、私の両親もG1さんのご両親同様、「勉強しろ」「学校に行け」といったことは言わない、まったく教育熱心じゃないタイプでした。きっと、あまりなにも考えてなかったのだと思います。

じゃあ、どこで「学校に行くのが当たり前」という価値感を身につけたんだろうなあと思い返してみると、私の場合は、マンガやアニメ、ティーンズ向けの小説などの影響が強かったような気がするのです。
当時読んでいた少女漫画や少年漫画は、たいていが学園もので、登場人物はみんな中学や高校に通って恋愛やスポーツや友情やと、青春を謳歌していました。

ティーンエイジャー向けにはほぼそういうカルチャーしかなかったので、「学校に行かないと、ああいうキラキラした青春をすごせないし、恋愛もできないし、学ぶこともできない」と無意識に思い込んでいたように思います。
そう考えると、私が携わっている児童文学も含め、ティーンエイジャー向けに発信するカルチャーの役割や功罪って大きいんじゃないかなあと感じます。

もっと「学校に行かない子」のストーリーが多彩にあってもいいのになあ。
どうも日本では、不登校などの題材を扱おうとすると、「深刻な悩み」として描くパターンが多くなりがちな気がしますが、学校に行かないことで思春期の人生を思いっきり楽しんでる人だって、いるはずだと思うし、そういう生き方の可能性って、表に見えていないだけで、本当はたくさん探せるんじゃないかな。

そういう「学校に行かなくても楽しい姿」がカルチャーとしてどんどん描かれるようになったら、不登校の子ももっと生きやすくなるし、「学校以外にティーンエイジャーがすごせる場所」のアイデアも、さまざまに湧き、実現されていくんじゃないかな、とも思います。

次回は、まさに「楽しい不登校ライフ」をすごしていたG1さんの、寄宿塾での生活について詳しくうかがっていきたいと思います。

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