理論社

第14回

2020.11.13更新

自分の道を見つけたい! 第14回 G1さん篇2

「子どもの『不安』は、親や先生や社会が植えつけないと生まれない価値感じゃないのかな」

不登校を選択するとき、「勉強が遅れる」「進学できなくなるかも」「みんなと同じじゃないと不安」といったことを考えてしまって悩む人は多いんじゃないかなと思います。
G1さんに、「中学校に行かないと勉強が遅れるとか、進学できないかもといった不安はなかったですか?」とたずねました。

G1さん G1さん
ああ〜、勉強遅れるとか、そういう不安は、ぜんっぜんなかったですね。
だいたいそういう不安が湧くのって、環境が要因じゃないですか?
親が世間体を気にしたり、「他の子はこういうの行ってるし」と言うとか。まあ、進学してちゃんと会社入って稼いで、というのは生きる上で外せないことだから、ついつい言ってしまう気持ちはよく分かるんですけどね。

でもそういう不安の始まりは確実に親とか先生とか、社会が不安を植え付けてると思いますね。
だって、そういう世間と比べたり、「良い学校行かないと」みたいな価値感自体がなんにもない状態だったら、人と比べて不安になる心理も生まれるわけないと僕は思ってるので。
だって比較対象がないと、比較そのものができないから、不安になりようないですよね。
ぼくも中学にそもそも行ってないから、他の子がどんな状態か知らないし、親も「よその子は〜」とか言わなかったので、比較対象がないから不安にもならなかったんだと思います。

うちは父親も母親も、勉強しろとか、このままじゃヤバイぞとか、なんにも言わなかったから、今思うとそこはすごいなと思いますね。
父親自身が、学校で教えられて勉強ができるようになったんじゃなく、自分が学びたいことを好きで勝手に追究していった結果、ひとりでに成績が良くなっただけだという実体験があったから、「自分が好きなことを追いかけていたらなんとかなる」という思いがあったんだと思いますね。
「馬乗ってて、それで仕事になるの?」くらいのことは思ったかもしれないけど、今まで生きてて「まともな仕事に就け」とか言われたこともないですし、まわりの人を指して、「あんなふうになったらあかんぞ」的なことも言ったことないです。

親がある程度達観してると、余白ができて、子どもはより大きく育つことができるかもしれないですね。
HSPっぽい体質については、今でも苦労してるところがあるけど、でも、生き方自体に口を出されてたら、そっちのほうが大変だったと思います。それがなかったのは、すごくありがたかったですね。

これは私の個人的な考えですが、人間って本当は生まれながらに、「自分はどんなふうに生きたいのか」ということを、心の奥底では分かっている、感じてるんじゃないかなあという気がしています。それは生きているだけで、自然に人それぞれの個性が表れてくるのと同じようなものかなと。
G1さんはそういう自分の中に埋まっている「自分が好きなこと」「自分が楽しいと感じること」という感覚にとてつもなく正直で、いっさいブレてなかったのかな、という気がします。

G1さんがおっしゃるように、成長の過程で、「〜しなさい」「〜じゃないとダメだ」「〜じゃ格好悪い」「そんなんじゃ生きていけないぞ」などの、世間や他人と比較して不安に陥れるような価値感を植え付けられなければ、誰だって、そのままの自分の個性をすくすくと伸ばせるんじゃないのかなと、私もよく考えるのです。

G1さんの場合は、不登校という一見マイナスの状態になったおかげで、実は学校や世間から「不要な価値感や不安」を植えつけられる機会から逃れることができたという、ラッキーさもあった例じゃないでしょうか。
G1さんの例に限らず、「不登校」って、こんな具合に、ひるがえって実はラッキーを運んでくれる、ということもけっこうあるように思うのです。
「みんな同じ」を目指す世間一般の常識に染められて、自分の個性をつぶしてしまう機会を避けられるといいますか。

私の友人の子どもにも、不登校になっている子が何人かいます。
ある子は、「文字を学習するのがすごく苦手」という理由で小学校に行かなくなりました。
ひょっとしたら学習障害なのかもしれません。
こういうとき、親御さんは「みんなと同じ」じゃないことに不安を感じて、なんとか文字を覚えられるような場所や教えてくれる人を探すことも多いと思います。 懸命に、あるいは厳しく教えた結果、文字が読めるようになって、おかげで人並みになれた、自信が持てるようになったと安心する、というパターンも確かにあるのだろうとは思います。
親御さんの、我が子を思う故につらくなったり心配になる気持ちもよくわかります。

でも、よくよく考えてみると、文字を読めなくても映像や音声のツールでさまざまなことを学ぶ方法もあるし、もっと言うと、文字が読めないからこそ思ってもみなかった形で発達する能力だってあるのかもしれないな、とも思うのです。

自身のイベントで、学習障害で「文字が書けない」という体質を抱えながらも、「物語をつづりたいと思って作家を目指している」という方にお会いしたことがあるのですが、なにかご本人から明るいパワーのようなものを強く感じたことがあります。
きっと、文字が書けなくたって、何らかの表現方法を自分で見つけていかれるんだろうなという希望が光っているように感じました。

学校に行っていない友人の子も、学習の場に入れられさえしなければ、ものすごくダイナミックな、太陽のように溌剌とした子なのです。自分でいくらでも道を見つけていけそうなバイタリティが生命にしっかり宿ってそうなのです。

また、先天性全盲の河野泰弘さんという方がいるのですが、この方の本を読んで、見えないからこそ、全盲の世界を楽しんで生きているという、躍動的なようすを知り、自分の狭い価値観がひっくり返されて衝撃を受けました。

元プロ野球選手の新庄剛志さんも、読字障害で字が読めないそうです。国語の教科書が読めず、テストはいつも0点で、孤独を感じていたとか。でもあるとき、「もう漢字とかカタカナとか、いらない。野球だけやっていく!」と決めたそうです。
G1さんの生き方と同じだなあと思います。

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