「死ぬときは、モンゴルの大草原に一人きりで行き、誰もいない草原に朽ちていこうとする体を横たえる。亡骸は狼の餌となり大地に還る。そんな死に方がいい」
なんだか、真逆といってよい考え方ですね。
きっと私は、「本質的に人間は誰しも孤独だ」という考えが強かったのです。一人きりで大地に決然と立ち、死んでゆく姿に、人間の孤高と真実が表れるようで、憧れを持っていました。たくさんの人とにぎやかに楽しく過ごすよりも、自由に気ままに生きることを好むスナフキンタイプの一匹狼気質である、とも言えるかもしれません。
学生時代に内モンゴルを旅して、ゴビ砂漠に広がる大草原(バンパ)を馬に乗って走ったことも影響しています。見わたす限り草原と空しかない世界に入っていったことで、死ぬときもこんなふうに大きくて静謐な風景の中にたった一人で佇んでいられたなら、カッコイイなあと憧れたのです。
ただし私の場合は根性がヘタレなので、狼に肉を食べられるのは自分が死んだ後で、痛みを感じないようになってからじゃないとイヤ! と注文もつけていました。実際には、自然はそんな甘ったれたワガママを許してくれるわけないと思いますが……。
現在の大堀さんと私の状態を比較してみると、同じように子どもたちと向き合う仕事をしているといっても、大堀さんは大勢の仲間や子どもたちと常に共にすごす生き方をしていて、一方私は、ほとんどの時間をひとりで机に向かい、孤独と共に絵本や物語の制作に取り組むという生き方をしています。
それぞれのスタイルには、かつて学生時代に思い馳せた「自分の死に方」のイメージがありありと反映されているように感じます。
みなさんは、自分が死ぬのときの姿を、イメージしたことはありますか?
どんなふうに死にたいですか?
「布団の上でぽっくり死にたい」「子や孫に囲まれて死にたい」「名声や功績を残して死にたい」「宇宙で死にたい」「もう生きてることがしんどい」などなど、人によってさまざまだと思います。
すべての人間は、「生まれたからには死にむかって歩む」存在ですから、「死」はいうなれば人生のゴール地点。そんな最終ゴールである「死」について深く考えるとき、人は、一度きりしかない自分の人生を「いかに生きるか」という問いを、鮮烈に胸に抱くことになるのではないでしょうか。
一度「自分の望む死に方」について、真剣に考えたり、友達や家族と気軽に話し合ってみるのも、面白いんじゃないかな、なんて思います。
ちなみに、私の名前である陣崎草子の「草子」は、自分でつけたペンネームなのですが、内モンゴルの草原を馬で走ったときの鮮烈なイメージを元に付けた名前なのです。
やはり「死」を強烈にイメージすることは、その後の自分の人生をいくらか強く方向付けるところがあるんじゃないかしらん、なんて、自分の名前を眺めながら考えました。
「私は、大草原を馬で駆けるように、大らかに自由に生きたかったはずじゃないのかな」と、静かな問いかけが自分の中に生まれました。
次回は、大堀さんに「子どもたちとの接し方が、これまで知ってる大人と違っていた」という衝撃を与えたという、ヒロさんとの出会いについてうかがいたいと思います。